民数記とは

イスラエルの民がシナイ山からカナンまで荒れ野を旅した期間の出来事が記されています。民数記の主な主題は「旅」です。それは、イスラエルの民が、神や指導者に対しての反乱を起こし、罰と苦しみを受け、新しい生活のための準備をするに至る道のりです。始めの10章においては、宿営地や幕屋などの理想の在り方を語り、それに続く章では理想とかけ離れた現実の姿を描き出します。

「民数記」との名前は、人口調査(戸籍登録)を行ったことに由来しています。

  • 1-6章:イスラエルの人口調査、宿営地の割り当てなど
  • 7-12章:幕屋とレビ人の性別、過ぎ越し祭り、アロンとミリアムの反抗
  • 13-17章:カナンの偵察、民の反乱
  • 17-25章:祭司の義務、岩から水を出す
  • 25-30章:人口調査、モーセの後継者ヨシュア
  • 31-36章:ミディアン人の敗北、カナンの征服計画

著者とその年代

創世記は「モーセ五書」の1つに数えられる書物ですが、単純にモーセが著者であるとは考えられていません。複数名の記者が関り、イスラエルの歴史の様々な異なるものが資料として集められ、何段階かの作業を通して編成されました。著者は不明です。また、最終的に完成したのはバビロン捕囚帰還後、捕囚中であると考えられています。

一覧表の作成の意図

系図、地名などの詳細が一覧表の形で記され、人口や規定、場所などを「数え上げる」ことに関心が置かれています。人口調査は2回行われ、2回目にはカナンにおける正確な境界線が決められました。これらの詳細な情報を記す目的としては、未来における土地配分の根拠を残そうとしたと考えられます。また、規定の記録は後代に組織される制度や儀礼を合法化させるものとなりました。

ただし、レビ記のように体系的な記録ではなく、具体的な出来事を通して規定されました。例えば、祭司とレビ人の義務と権利に関する律法は、反乱の措置として描かれています。また、女性の遺産相続の規則も具体的な物語を通して語られています。

反逆と罰

モーセに対する反逆の記録が民数記の中盤に記されています。モーセの兄アロンと姉ミリアムはモーセを指導者として認めないと宣言しました。

コラ、ダタン、アビラムは大きな反乱を起こそうとして神に罰せられました。また、ヤハウェを捨て、モアブ人の神を民が信じたことにより、災害が起こり、2万4千人が死んだと記録されています。この大量死によって新たな人口調査が必要となり、2回目の戸籍登録が実施されたのです。

その後、新たな世代の人口が確定し、ヨシュアがカナン征服に入る態勢が徐々に整えられていきます。

カナン人との戦いを神が命じたのはなぜか

民数記においては、神が目的や計画を実現するために暴力を容認しているかのように思える言葉が出現します。

さて主はモーセに言われた、「ミデアンびとにイスラエルの人々のあだを報いなさい。その後、あなたはあなたの民に加えられるであろう」。(民数記31:1-2)

その結果、先住民の街は滅ぼされます。

彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。(民数記31:7)

たびたび聖書に登場するそのような記事から、聖書は「戦争を肯定している」との誤解が生まれやすくもあります。しかし、キリスト教において最終的に示される神の姿は「愛」です。

では、どうして旧約の世界においては惨たらしい戦争が神の名によって肯定されていたのでしょうか。それは、当時の人々の「限界」としか言いようがありません。しばしば聖書においては「戦士なる神」との表現が用いられ、先住民は殺され街は破壊されました。その破壊において、イスラエルは神の怒りの道具として用いられた、という理解でした。また、神は必ずもイスラエルの味方ではなく、正義の側に立って戦うと考えられていました。戦争という手段によって、悪しきものを滅ぼされる、という原始的な理解です。

上記のような理解は、あまりにも自己中心的であり、先住民のことなどは何も考えていません。しかし、当時のイスラエルにとって住民が増えた中での遊牧生活は不可能であり、定住先を「奪う」しか手段がありませんでした。そうでなければ自分たちが死ぬ、もしくは「殺される」という状態であったのです。

そのような極限状態の中で、イスラエルの民は「生きよ」との神を声を、あまりにも歪んだ形で実現してしまったと言えましょう。正義の戦争、正義の殺害などはあるはずがないのです。しかし、それを人類が知ることとなったのは、自分が死んでまでも他者を救おうとしたイエスの姿を目の当たりにしてからの話です。

聖書は人類の神認識の成長の記録であると言えます。神はいつの時代も変わりませんが、人間の認識が旧約の歴史を通して徐々に変化していくこと、イエスにおいては大幅に変化したことを感じざるを得ません。イエスが拠り立ったところは「旧約」ですが、命をかけて挑戦したのも「旧約」なのです。イエスが何と戦ったのか、その視点でみなければ、旧約の虐殺を正当化するような理解となるでしょう。